また若者が1人、自ら命を絶ってしまいました。
ここのところ立て続けにこういった悲劇がおきてしまっていますね。
このような悲劇が続いてしまうと、メンタル弱めな私としては、そちら側の思想に引っ張られてしまいそうで怖くなります。
もしかしたらこのブログを読んでいる人の中にも「もう疲れた 生きるの辛い 死んでしまいたい」などと思っている人がいるのかもしれません。
生きているのが辛くなった時の相談場所として、『いのち電話』というものがあることをご存知でしょうか。私はかつて最後の思いを託すため、ここに電話をかけたことがあります。
「こういった例もある」ということで、今回は私が『いのちの電話』にかけた時の記憶を、辿ってみたいと思います。
もう生きるの無理・・・
うつ病の症状がかなりひどかった頃、歯がひどく痛み、とある歯医者で治療を受けました。しかしそこの歯医者の治療はひどくずさんで、治療してほしいところとは違う個所を、いきなり削り始めたのです。
しかも削っている最中に口内に水が溜っても吸い取る事をしてくれず、喉に限界まで水が溜るとむせてしまい、体を起こし自分で水を吐き出すということを繰り返していました。
水がたまりむせている私を見ても、歯科医師も助手もなんら悪びれる様子はなく、水を吐き出しむせるのがおさまると、また削るという行為を繰り返しました。
あらかた削り終わると、ワタに薬を浸したようなものを削ったところに詰めて、そこにセメントのようなものを入れてきました。
そこをしばらく指で押さえて、ある程度固まったところで治療は終了でした。
違った歯を削られたこと、ひどくずさんな扱いを受けたことは、ただでさえ弱っていた私の心を深く傷つけました。永久歯が普通の人の半分しか生えていない私にとって、数少ない永久歯をなんの説明もないまま雑に削られたことは、死に匹敵するほどのショックでした。
歯に関するエピソードはこちらに書いてありますので、興味のある方はご覧ください。
歯医者でずさんな治療をされた私は
頭が悪いとこんな扱いを受けるんだな。
うつ病で貧乏で引きこもりニートの私は、歯の治療すらまともにしてもらえないのだな。
と、生きる気力までも削られてしまいました。
これが世間ってものなんだ。
引きニートなんて人間として扱ってもらえないんだ。
そのうち歯が無くなってまともに食事ができなくなるし、歯が無いみっともない姿で生きていくのはみじめだし、もう生きるの無理じゃん。もう生きるの辞めよう。
こうした思いが歯医者からの帰り道にどんどん強くなっていき、 私はこの日の夜に、この世と「おさらば」することを決心するのです。
いのちの電話に最後の言葉を託そうと・・・
この世を去ることを決めた私ですが、この決心を母と弟に悟られないよう、いつも通りになんとか振る舞いました。
母と弟あてに手紙を書き、決行前夜に母と弟が寝入った頃を見計らい、二人の部屋の前で深々と頭を下げました。2人に「今までありがとう 頑張れなくてごめんね」と、小さな声で呟きました。
そして朝になり2人が仕事に出かけると、私は決行の準備を始めました。
決行の準備やどのような方法をとったかなどの詳細は、公の場で書くには不適切な内容となりますので、この部分は省略させていただきます。
準備が整い、あとは決行するのみとなった時、私はふとこう思ったのです。
「私をひどい目に遭わせたあの歯医者が憎い。お前のせいで人が死んだのだと思い知らせるために、そしてあの歯医者の被害者が増えないように、誰かにこの話を伝えておかなければ!!」と。
そしてその時に頭に浮かんだのが、『いのちの電話』でした。
私は歯医者の診察券を取り出し、歯医者の名前と住所と電話番号を確認すると、ここがどんなにひどい歯医者かを伝えるべく、いのちの電話の番号を押しました。
『いのちの電話』に繋がらない
最後の思いを託すべくいのちの電話にかけてみたものの、ずっと話し中でなかなか繋がりません。
話し中のツーツーツーという音ではなく、トゥルルルルという呼び出し音が鳴る時もありましたが、誰もでません。
何度も・何度もかけ直してようやく電話が繋がると「今から死ぬつもりなのですが、最後に聞いてほしいことがあって電話しました」と、泣きながら伝えました。
電話に出た人は、年配の女性の声でした。
「自分から命を捨てるようなことをしてはいけませんよ」と、そんな感じのことを言われたような気がします。
言われた事にはおかまいなしに、私は歯医者で受けたひどい治療の事を話しました。
これは作り話なんかじゃない、本当の話です。こんなひどい歯医者があるんです。他の人が同じような目に遭わないように、どうかこの話を皆に広めてくださいと、お願いしました。
私の必死のお願いに対して電話口の女性が何と答えてきたのか、今となってははっきりとは覚えていませんが、いつの間にか私は、自分の身の上話を始めていました。
胴長短足で薄毛で永久歯が半分しか生えないこと。父親がどうしようもない人間であること。小学校の頃からイジメにあい引きこもりになってしまったこと。もう生きているのが辛くて仕方がないこと。
これらの身の上話を、電話口の女性は穏やかに相づちを打ちながら聞いてくれました。
相談員さんからの言葉
私の話を一通り聞き終わると
世の中には辛い目にあっても頑張って生きている人はたくさんいる。
あなたより辛い思いをしている人だっているのよ。
辛いのはあなただけじゃない。
といった感じの、よくあるタイプの励ましの言葉を言われました。
これらの励ましの言葉を言われて私は
胴長短足なのも髪が薄いのも歯が生えないのも父親がクズなのも自分のせいでなったことじゃないし、自分の力でなんとかできることでもない。産まれながらにこんなにハンデを背負わされていても、健常者だから国からの支援を受けることなく、自分の力で生きて行かなきゃならない。こんなの理不尽すぎる。こんな不公平な状況でこれ以上生きてなんていけないと、言い返していました。
このように言い返した私に相談員の女性は、なにやら宗教的な話をしてきました。
聖書がどうのこうのと言っていたのは覚えているのですが、宗教の話に全く馴染みがなかったこともあり、話の内容に興味がもてず、適当に聞き流してしまいました。
なのでこのへんの話はほとんど覚えていないのですが、「産まれてきたことには理由がある」とか「この世に必要ない人間なんていない」とか、そのような事を言われていたような気がします。
話すことで冷静さを取り戻す
聖書や宗教の話が長く続き、その話があまり理解できずに、私は話を聞くことに疲れてきていました。
相談員の女性に「なんだか疲れてしまって頭がクラクラします」と伝えると、病院からどんな薬を貰っているのかを聞かれました。
私は素直に「抗うつ薬と睡眠導入剤と精神安定剤です」と答えました。
すると相談員の女性は、「なら精神安定剤と睡眠導入剤を飲んで眠ってしまいなさい」と言ってきました。
私が「不眠症だから睡眠導入剤を飲んでも眠れないんです」と答えると「今日はたくさんお話して疲れているからきっと眠れるわよ」と言ってきました。
それを聞いた私はなぜだか少し嬉しい気持ちになって、「そうですね、眠れるかやってみます」と答えました。
最後に相談員の女性は「もしまた辛くてどうしようもない時には電話してね」と言ってくれました。
それを聞いてまた少し嬉しい気持ちになって、電話を切りました。
電話を切ると私は、言われた通りに精神安定剤(デパス)と睡眠導入剤(ハルシオン)を飲み、横になりました。
久しぶりに他人と長い時間話をしたせいなのか、辛い気持ちを吐き出してスッキリしたからなのか、その時の私はいつもよりもすんなりと眠りに落ちることができました。
その後3時間ほどして目が覚めた時、死のうとしていた気持ちはだいぶ薄れていて、頭の中に冷静さを取り戻していました。
それによって死にたいと思う気持ちよりも、「もし失敗して自分で歩けないような体にでもなってしまったら・・・」という恐怖心の方が勝ち、自殺決行を思いとどまることができたのです。
自分自身の弱さと戦う!
私はこれまでに『自傷行為』は何度かしていますが、入念に準備をして死のうとしことは、この時が最初で最後です。
自傷行為も死にたい衝動に駆られてやってしまった行為ではあるのですが、本気で死のうとしたというよりは、痛みや苦痛を感じることで正気を保っていたというのが、自傷行為をした1番の理由だと分析しています。
うつ病特有の不安や恐怖や焦燥感。
これらの感情が大波となって襲ってきた時って、気が狂いそうなほどに苦しくて怖くて不安で、自分が壊れておかしくなってくるのです。
自分が壊れて気が変になってきた時には、とてもここには書けないような最悪のシナリオが頭に浮かんでしまいます。そのシナリオを現実のものにしないために、自分で自分を制する行為。それが自傷行為なのだと、私の場合はいえるでしょう。
わかりやすく例えるならば、『自傷行為=現実逃避』といった感じなのでしょうか。
今私はこうして文章を書いていますが、もし入念に準備したあの時に自殺を決行していたとしたら、私がこうして文章を書くことはなかったのかもしれません。
生きていてよかった!
この世にある全ての物と引き換えにしてでも、死による救済を求める気持ちが強いのならば、その気持ちを止めることはできないのかもしれません。
私は追い詰められた時の「死への誘惑・死による救済」がどれほど大きいものなのか、普通に人生を歩んできた人よりはわかっているつもりです。
命を捨てることで人生の救いを求める人に対して、何の責任も取れない他人ごときが口をはさむなんて、おこがましい行為なのかもしれません。
だけどこれだけは言えます。
私はあの時、死ななくてよかったです。
あの時死ななかったらから、家の近くの小高い丘の上に、綺麗な景色が見える散歩道があることを知りました。
あの時死ななかったから、以前に働いていた職場の人と、一緒に食事に行くことができました。
あの時死ななかったから、好きな映画をまた見ることができました。
普通の人から見たらどれも取るに足らないような事かもしれませんが、私にとってはこんな小さな事でも嬉しく思えるし、生きたいと思える原動力のひとつです。
話すことで救われる命があるはず!
自ら命を絶つという行為を決行しようとする時、普通の精神状態ではとてもできるものではありません。その異常なまでの精神状態を、準備から決行、そして完了するまで保ち続ける必要があるわけです。
その過程でほんの少しでも気をそらすことができれば、完了するまでに至る確率は、かなり下がるはずです。
そういった気持ちをそらすという意味では、いのちの電話は助けになると、当事者として強く感じました。
「知らない人に電話をかけていきなり重たい話をするなんてできないよ・・・」と思ってしまう人もいるのかもしれませんが、どうせ死ぬつもりなら、最後に誰かに思いをぶつけてみたらいいと思います。
もしどうしようもなく思い悩んでしまい、生きているのが辛くなってしまったら、思い切って受話器をとってみてください。
そしてあなたにとって大切な人の顔を思い浮かべてみてください。
これを読んでくれた人に、1年後にも、5年後にも、10年後にも、また読んでもらえたらいいな。そんな思いも込めつつ、これからもブログを綴っていこうと思います。
それでは今日はこのへんで。コノハでした。