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30代高卒男が転職を決意!収入は下がったけど幸福度は上がったようだ

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前回の記事では、仕事を選ぶ基準について書きました。仕事を選ぶ基準はいろいろあるけど、ぶっちゃけ仕事を選べる立場の人ばかりじゃないですよね。正社員雇用が当たり前だった親世代と比べて、今は非正規雇用の割合が増大しています。

 

このような時代においては、ちゃんとした学歴や使える資格なんかがないと、仕事を選ぶどころか、正社員として雇ってもらうことすらままなりません。本当に厳しい時代ですね。

 

前回の記事を書きながらふと、弟が転職したときのことを思い出しました。リーマンショックの傷跡が癒えぬ最中、高卒でこれといった資格もないのに「今の仕事を続けるのは限界だ!」と言い出しだ弟。

 

結論から申し上げますと、弟の転職は今のところ正解だったようです。お給料は下がりましたが、尊敬できる上司と出会えたことで、幸福度は上がったようなので。

 

今回の記事では当時を振り返りながら、弟の転職にまつわる出来事を書いていきたいと思います。社会の底辺でもがき苦しみながらも、腐らず頑張っている奴もいるという事実が、どこかの誰かの生きる励みになったら幸いです。

 

 

勉強ができなさすぎて高専に進学

弟は、はっきり言って頭が悪いです。子供のころからゲームばかりしていて、ろくに勉強していません。「そんなにゲームが好きなら将来はゲーム制作の仕事につけるよう、しっかり勉強しなよ!」と何度も言ったことがありますが、ガン無視され続けました。

 

せめて「1」は取らないようにと、私が勉強を教えようとしたこともありますが、無理矢理やらせようとすると癇癪を起すので、ある時期からはもう、放っておくことにしました。そうしたところ進学できる高校がない状態に陥り、学費を納めさえすれば誰でも入学できるような、高校と専門学校が一緒になったタイプの、高専学校へと進学することになります。

 

そこの学校は卒業しさえすれば「調理師」の資格が取得できるシステムとなっており、勉強は本当に義務教育レベルのおさらいといった感じで、主に料理の学習に力を入れている学校です。

 

弟は別に料理が好きなわけではないですし、学校にあまり馴染めなかったようですが、登校拒否になることはなく、無事に卒業を迎えます。そこの学校にはいろいろなお店や企業から多くの求人がきており、就職率は高いようでした。

 

数ある求人の中からどこに就職しようかと悩んでいた弟に対して、「社員食堂がいいんじゃないの。普通の飲食店よりも拘束時間が短いし、休みもしっかり取れるから」と、私と母はアドバイスしました。

 

ですが弟は、個人経営の小さな飲食店を選んだのです。選んだ理由は、人が少なくて人間関係が楽そうだから。社員食堂は大勢の人の中で働かなくてはならず、人間関係が面倒だと感じたようです。

 

 

飲食店を1年弱で退職

個人経営の小さな飲食店は、オーナー夫婦の他にはパートのおばさんが数名いる程度で、弟の思惑通り、人間関係は楽だったようです。オーナーの人柄は良く、パートのおばさんも気さくな人ばかりで、唯一の若者である弟のことを可愛がってくれました。

 

しかし勤め始めて10ヶ月が経過したころ、弟はバイクで事故を起こします。足を骨折したためしばらく仕事に行くことができず、その間にオーナーさんからあることを告げられたのです。

 

弟は小さなころからアトピー性皮膚炎で、肌がとても弱いです。飲食店での仕事を始めるまでは手にアトピーの症状が出ることはあまりなかったのですが、水仕事が増えたせいか、手の甲からひじのあたりまでのアトピーが、ひどくなっていました。

 

そのことをオーナーさんは気にしてくれていて、「アトピーはひどくなると白内障にも繋がる怖い病気だから甘く見ちゃいけない。お金を稼ぐ手段は他にもあるから、どうしてもこの仕事に拘りがあるわけでないのなら、これを機に他の道を探してみてはどうだろう」と、弟に告げたのです。

 

弟は別に料理が好きでこのお店で働いていたわけではなく、成り行きで入学した専門学校で調理師の資格が取得できたから、料理の道に入っただけでした。そんな弟にとってオーナーさんの言葉は、調理師の仕事を辞める決心をさせるのに、十分すぎる言葉となったのです。

 

こうして弟は、1年弱で飲食店を退職しました。

 

 

アルバイト先で正社員に登用

飲食店を辞めた弟ですが、唯一の武器である「調理師免許」を使わず就職となると、学歴の低さがネックとなり、そう簡単に次の就職先は見つかりません。

 

自分がどんな仕事なら続けられるのか、自分に何ができるのか、弟は全くわからない状態でした。それでも我が家は家計にゆとりがあるほうではないので、いつまでも無職でいるわけにはいかないと、とりあえずアルバイトを始めます。

 

選んだアルバイトは、工場でのライン作業でした。人と接することが苦手な弟にとっては、黙々と作業を続けるそこでの仕事は合っていたようで、アルバイトとして1年程働きます。

 

そして1年程経ったある日、「正社員にならないか」と持ち掛けられたのです。そこの会社は大手企業の子会社で、仕事は比較的安定していたので、弟はその話に乗っかりました。

こうして弟はなんとか、正社員として職を得ることができたのです。

 

参考までに書いておきますと、弟が正社員登用された理由は主に3つ。(後に社員さんから聞いたらしい)

1,無遅刻・無欠勤だったから
2,わからない事をわからないままにせず、自ら質問できたから
3,ミスが少なかったから


どれもごくごく当たり前のことですが、バイトという身分の気楽さからか、これらの当たり前のことができない人も多いようなのです。バイトだからと気軽に休んだり、わからない事を「ま、いっか!」で済ませたり、ミスしても「バイトに難しいことさせないでよね~」と、開き直ったりする人もいるのだとか。

バイトでも仕事に責任をもって真摯に取り組む。これだけのことでも他の人と差がつけられます!

 

  

10年働いた会社を「辞める」と言い出した

正社員として働き始めると、アルバイトのころのような単純作業だけではなく、取引先への対応や、派遣やパートの人を管理する仕事など、弟が苦手とする「多数の人と接する」ことも必要になりました。それに伴いストレスは増えたようですが、そこで約10年間、なんとか続けることがきました。

 

ところが10年程経ったあるとき、「俺トラックの運転手やりたい。人と関わるの面倒くさい。もう今の仕事辞めたい」と言い出したのです。

 

弟の勤め先は某大手メーカーの子会社だったため、本社で要らなくなった人材が度々送り込まれてきました。バブル崩壊前に入社した人材には、難アリの人も多かったからです。

 

バブル崩壊前は完全なる売り手市場だったことと、今ほどオートメーション化が進んでいなかったこともあり、とにかく人手が必要とされていました。ゆえに体さえ健康であれば難アリの人でも正社員として入社できたのです。

 

ですがオートメーション化が進み、加えて非正規雇用が拡大した時代においては、体だけが健康な人材は不要となります。体だけでなく頭も健康じゃないと、要らない人材に認定されるのです。不要となっても正社員なのでクビにすることはできず、そのため子会社をたらい回しにすることで、自主的に退社するよう促すわけです。

 

本社で不要となった難アリな人々は、度々弟を苦しめていました。

・仕事ができなくせに態度はデカイ。

・失敗しても謝らずに言い訳ばかりして、挙句に自分は正しいと言い出す。

・指示通りに仕事をせず、勝手に自分流でやって失敗する。

・もう任せられる仕事がないからと仕事を振らなければ、それはそれで怒り出す。

難アリな人々のせいで取引先に頭を下げたり、尻拭いするための余計な作業が発生したりして、弟の心は消耗していきます。

 

難アリな人々がいかに会社に不利益をもたらしているか、弟はレポートにまとめて上司に提出し、一刻も早く追い出すように掛け合います。ですが一人追い出してもまた次の難アリ人材が来て、らちがあきません。

 

そのような状態に疲弊していた弟に、トドメを刺したのがリーマンショックでした。

 

 

10年働いた会社を辞める決心をした

リーマンショックによって、弟の勤め先も打撃を受けました。打撃を受けたことにより、一生懸命働いてくれていた、派遣社員の人を切らなければならなくなったのです。いわゆる派遣切りってやつです。

 

弟は派遣やパートの人材管理もしていたため、派遣の人と接触する機会は多く、派遣切りが行われたことは、弟にとってはひどくショックな出来事だったようです。

 

会社に迷惑ばかりかけている本社から送られてくるゴミ社員はクビにならないのに、真面目に働いていた人をクビにするなんておかしい。クビにするならゴミ社員からするべきだ。本社の正社員ってそんなに偉いのかよ。本社の正社員だから派遣だからとかじゃなくて、仕事で評価するべきだ。弟はこのように上司に掛け合ったそうですが、もちろんこれらの意見は却下。

 

「〇〇(弟の名前)の気持ちはわかるけど、本社の正社員をクビにできるわけないだろ。本社もクビにできないから子会社をたらい回しにしてるんだから。」

 

この出来事が、これまで頑張ってきた弟の心をポキっと折ってしまいます。

 

私も母も、もちろん止めましたよ。こんなご時世に就活するなんてバカな真似はやめろと。あと15年くらい辛抱すればバブル崩壊前に入社した難アリな人々は減っていくから、それまで耐えなよと。でも無理でした。

 

「本社から来たゴミにさんざん迷惑かけられてもなんとかやってこれたのは、派遣の人がフォローしてくれたからなんだよ。俺あの人たちにすげー助けられてたのに、守ってやることできなかった。もうあんな理不尽な会社にいたくない」涙ながらにそう話す弟に、私も母も、無理に引き留めることはできませんでした。

 

こうして弟は、10年間勤めた会社に別れを告げたのです。

 

 

31歳にして初めての就職活動

最初の勤め先は学校からの紹介で、次の勤め先はアルバイトからの社員登用。よって弟は、まともに就職活動をしたことがありません。31歳にして初めて就職活動をすることとなりました。

 

人と関わることが心底面倒になっていた弟は、トラック運転手をやりたいと考え、大型免許を取ることに。免許を取った時期に応じて普通免許で運転できる車両の大きさは異なり、平成19年6月1日以前に普通免許を取得した人は、「最大積載量5トン未満・車両総重量8トン未満・乗車定員10人以下」のトラックに乗れます。弟が免許を取ったのは平成19年6月1日以前なので、普通免許でも小型や中型のトラックなら乗ることができるのです。

 

ゆえに大型免許は取らなくてもいいのではないかとも思ったようですが、大型免許を持っている人は少ないため、大型を持っていたほうが就職活動が有利になると考え、取得することにしたのです。

 

しかしこれまで普通自動車しか運転したことのなかった弟にとって、大型車両を運転するのは非常に困難だったようで、試験に3回も落ちて、やっとの思いで大型免許を取得。

 

大型免許を取得した弟は、ハローワークで面接の練習をしたり、職務経歴書の書き方を教わったりしていました。ハローワークでは失業保険の手続きや仕事探しの他にも、就活へのサポートをいろいろと行っているようです。

 

31歳にして初めての就職活動は、意外にも順調に進みます。運送業界は人手不足の会社が多く、リーマンショック後で不景気な時期ではありましたが、面接に行った会社の約7割からは、採用をもらえました。大型免許を取得したことに加えて、フォークリフトの運転経験が豊富だったことも、有利に働いたようです。

 

採用はもらえたものの、弟はどの会社にも決めようとしません。なぜなら大型免許を取りに行った教習所で、トラックを運転することの難しさを目の当たりにし、ビビったからです。思っていた何倍も大型車両の運転は難しかったようで、それを仕事にするのはどうなんだろうと、悩み始めてしまったのです。

 

ですが「トラック運転手やりたい」と言ってしまった手前ひくに引けず、面接は受けていたようです。このような状態の弟に私は、「2トンくらいのトラックならそこまで難しくないんじゃない? 〇〇株式会社(コンビニへ配送している運送会社)のトラックは小型ばかりだから、あそこ受けてみれば?」と言ってみました。

 

そしたら弟のヤツ、「でも食品関係は休みや時間帯が不規則じゃん」とぬかしたのです。私も負けじと「別に不規則でもいいじゃん。嫁と子供がいるわけじゃないんだし。平日休みのほうが銀行とか役所とか行くのに便利だよ。店だって空いてるしさ~」と言い返します。

 

でもなぜか弟は頑なに土日休みにこだわり、食品関係には行こうとしません。土日休みとなると工業製品を運ぶ運送会社が多く、そうなると小型のトラックとはいかなくなります。そんなこんなで弟がウダウダと悩んでいたとき、私は求人雑誌である会社の求人広告を目にしました。

 

その会社が、現在勤めている会社です。

 

 

就職の決め手となったのは面接官の人柄と会社の雰囲気

求人雑誌で見かけたとある運送会社。そこの会社では構内作業とドライバーの両方を募集していました。構内作業ならフォークリフトに乗れればできるし、ドライバーも募集していて、2トン・4トン・大型と種類が豊富。そして弟の希望通り昼間の仕事で土日休み。ネットで調べると社歴は長く、規模もそこまで小さくはないので、そう簡単には潰れなさそうな印象もあり、ここを受けてみることに。

 

ちなみにこちらの口コミでも、なかなか評判良いです!

転職会議

 

就活を通して10人くらいの面接官と話してきた中で、この会社の面接官が(現在の上司)1番話しやすかったそうです。面接のとき気負うことなく話せて、構内作業が希望だけどトラックの運転もやってみたいことを、自然と伝えられたとのこと。

 

面接官は説明や質問など一通りの話が終わると、「2ヵ月間の使用期間があるので、まずはやってみませんか。説明を聞いただけでは判断できないだろうし、やってみて合わないと思えば遠慮なく言ってくれて大丈夫ですから。」と言ってくれたそうです。

 

この言葉を聞いて、とりあえずやってみることにした弟。それから月日は流れまくって早9年。とりあえず始めたその会社で、今も働いています。

 

ここの会社には10カ所ほど営業所があるのですが、弟の勤める営業所はその中で1番売り上げが悪く、お給料は営業所の中でも最低クラス。それでも職場の雰囲気がよく、売り上げ最下位を脱するべく、皆で頑張っている過程に充実感があるようです。

 

元いた職場は、張っている人とそうじゃない人の落差が激しくて、大きな不公平感を抱いていた弟にとっては、皆が平等に頑張るこの職場は、居心地が良いようです。

 

お給料は以前よりガクっと下がり、人数がカツカツなので有休はほぼ使わせてもらえません。前の職場は冷暖房が完備だったけど、今は冷暖房なんてものはないので、夏は暑いし冬は寒い。待遇面だけ見ればいいとこなしです。

 

それでも弟は言う。あのとき転職したのは間違いじゃなかったと。

 

悩みや不安を何でも相談できて解決に向けて全力で動いてくれる上司と、共に頑張る仲間ができたことは、お給料が下がったことを補って余りあるようです。

 

 

幸せの基準は人それぞれ!低賃金の底辺労働者でも幸せらしい!

前回の記事で、仕事の幸福度を決める7つの徳目を書きましたが、あれを全て満たす職場って、そうそうあるもんじゃないですよね。あったとしても、採用されるかわかりませんし。

□併せて読みたい

 

全てが揃った職場は倍率が高くて採用されるのが難しいので、自分にとって優先すべき項目は何なのかを明確にし、絶対に譲れないポイントを押さえて、そこだけはクリアできている会社を探すのがいいのかなと、弟を見ていて感じます。

 

弟にとって絶対に譲れないポイントは、「一緒に頑張れる仲間がいること」だったのでしょう。だから一緒に頑張ってくれた派遣さんたちが切られたとき、悔しくて辛くて、「もうこんな会社にいたくない」って、なったんだと思います。

 

世の中の低賃金労働者の多くは「低賃金でこき使われてバカらしい」とか「低賃金じゃ結婚もできないし生きている意味あるのかな」とか、暗いツイートしてますけど、弟はなぜか幸せそうです。毎日元気に会社へ行き、帰ってくると毎日のようにオンラインゲームをしながら、楽しそうに喋ったり笑ったりしています。

 

残業しないと手取り20万円切るような低賃金なのに、有休ぜんぜん使わせてもらえないのに、引きニートの姉を抱えているっていうのに、よくあんなに笑えるなと、私が言うのもなんですが驚きます。

 

出会う人で人生が変わるとかいう話も聞きますし、弟にとって今の上司との出会いは、お金では得難い貴重な出会いだったのでしょう。「あの人がいる限り絶対に仕事辞めないから安心して!」と弟に言われたけど、「いやいや、その給料じゃ安心できんでしょ」と、引きニートの姉は心配でたまりません。

 

そんなわけで、私も老体にムチ打って在宅ワーク頑張ります!

 

それでは今日はこのへんで。コノハでした。

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